けけの備忘録

20代そこそこのいわゆるZ世代。ニュースや日常生活の中で感じたことをエッセイ的に書きます。

日本企業はもっと潰れるべき

今日は日経新聞のこの記事をベースに論説的な記事を書こうと思う。

参考記事

www.nikkei.com

 

世界的にゾンビ企業が増加しており、日本では現在約16.5万社が該当すると言われる。

ゾンビ企業とは負債の利払いを利益で賄えない企業のことで、端的に言えば利息すら払えないということだ。

 

インタレストカバレッジレシオ(interest coverage ratio)という指標があるが、これは営業利益と金融収益(受取利息など)の合計を支払利息で割ったものである。

端的に言えば会社の活動によって支払うべき利息を賄えているかを表す指標だ。

理想としては10以上とされ、これが1を下回っているということは、実質的に破産に近い状態だ。

 

このようなゾンビ企業が存続できてしまうのは、日本の国内事情が関係している。

日本市場は海外に比べて最低賃金が安く、競争も激しくない。賃金が安いということは会社の支出が少ないということである。また、競争が激しくないということは、低い生産性の企業が淘汰されないということだ。

 

近年を見てみよう。日本ではコロナ倒産が2019年1月ごろからの3年間で3千件ある。

ところが、米国では6万件以上、英国でも4万件ほどのコロナ倒産があるのだ。

国によって施策に違いはあるので単純比較は難しいが、日本がいかに「倒産しない国」であるかが目に見えてわかると思う。

 

「倒産」と聞くとマイナスイメージを持ちがちだ。もちろん従業員や利害関係社にとってはマイナスには違いないのだが、社会全体で見た時、低パフォーマンスの会社が倒産することには意味がある

 

第一に、競争の源泉になることだ。競争意識やある程度のプレッシャーは社会にとってプラスになる。もちろんそれが過酷労働などにつながってはいけないが、現在の市場情勢から考えて、単純な過酷労働はあまり奏功しないと思われる。

 

「企業にある程度プレッシャーがあった方がいい」という話は「株式のエイジェンシー費用」という話にもつながってくる。

株式のエイジェンシー費用とは、他人資本が少ない会社、すなわり銀行などからお金を借りない会社のパフォーマンスは悪くなるリスクがあるという話だ。

なぜなら、債務不履行になるリスクが低く、企業努力の必要性が薄いからである。

 

就活などでよく自己資本比率(借金以外で調達したお金の比率)の高さをアピールしている会社がある。もちろん倒産しにくいこと自体はいいことなのだが、単純に自己資本比率が高いことを売りにしているのはいかがなものかと思う。

 

もちろんキーエンスなど、自己資本比率が高い企業でも高収益企業も多くあるので、自己資本比率が高いことが直ちに悪というわけではない。

 

第二に、労働者の待遇改善につながる。パフォーマンスの低い会社の賃金は低いため、低賃金高時間労働の温床となりやすい。

ここで注意しなければならないのが、「労働市場流動性」だ。

倒産し、職を失った従業員が路頭に迷わないことが重要であり、ただ失業者を増やすことは社会的に良くない。そのためにも労働市場流動性は担保されていなければならない。

 

第三に国際競争力の強化だ。高パフォーマンスの会社が増えれば、当然国際競争力は高まる。

諸外国の生産性など関係ない、日本は日本のペースでいい、という人がいるがそれは違う。

なぜなら、日本は外貨を獲得する必要があるからだ。

当たり前だが、外貨を獲得しなければ、資源が買えない。

日本は先進国で最もエネルギー自給率が低い

しかし、石油や石炭、鉄鉱石、ボーキサイトレアメタルを含め、それらを使用しないことには社会は成り立たない。鎖国を受け入れるなら別だが、今の生活水準を維持したいなら、エネルギーを輸入しないわけにはいけない。

日本のあり方について様々な議論をする際、「日本には資源がない」という非常にシンプルかつ重要な視点を忘れがちになっている。そもそも、最初から他の先進国と同じスタートラインに立っていないのだ。

 

 

日本は諸外国に比べて労働生産性が低いことが問題視されているが、企業の倒産の少なさは問題視されていない。「倒産が少ないことが問題」というのはいささか逆説的だが、生産性の源泉が競争である以上仕方ないのだ。そのために失職した従業員がすぐに別の職場を見つけられることが重要になる。

 

 

「賃金が低すぎる」こんなツイートがよくバズっているのを目にする。

それはもちろん正しい。賃金を上げるべきだ。

ただ、その結果倒産は間違いなく増えるだろう。それを問題視するのではなく、社会にとっての前進と捉えられるのか。

それはいわゆるマイナスなイメージの「倒産」ではない。

少し性格の悪い言い方をするなら、「間引き」なのだ。

横一線教育を見直そう

参考記事

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE2156R0R20C22A7000000/

 

文科省が「ギフテッド」を対象とした実証プログラムを始めるという。

「ギフテッド」は特定の分野などで才能に恵まれた子のことで、わかりやすい指標で言えばIQ130以上の子などだ。もちろん知能指数だけではなく、音楽や芸術なども含まれる。

 

元来、日本は「横一線」を大切にしてきた。一番下をいかにして上げていくか、という発想で授業などは展開されていく。

本の学校では授業についていける子は良くも悪くもそれっきりで、授業についていけない子をどう扱うかを考えてきた。「劣等感」などを感じさせたくないという思いがあるのだろう。

ただ結局、現状のシステムでも卒業した学校の偏差値や学歴によって劣等感を感じている人も少なくない

 

さて、私の小学校6年生の時の話であるが、私は成績優秀だった。

自慢のような書き方になるが、これは私が「ギフテッド」であるという話ではない。

中学受験勉強をしていたため、休日は10時間以上勉強していた。むしろ成績が悪い方がおかしいのである。

 

小学校6年生のクラスだったが、クラスには簡単な足し算や引き算すら危うい子が何人かいた。

先生はそういった子にかかりっきりだ。

同じ進学塾に通っていた子から、一部の私立小学校や、高級住宅街を校区に持つ公立小学校は、授業中に中学受験勉強をしてもいいところがあると聞いていた。

そういった学校に通っている人が学校で受験勉強する間、自分は学校で低学年の頃の復習をしており、「受験に受からない」と焦っていた。

 

そこで、先生に「休み時間だけでも受験勉強させてほしい」と言った。

先生は「ダメだ」の一点張り。理由を聞いても「一人だけ違うことをするのはよくない」とのことだった。

休み時間に一人で違うことをしてはいけないのか、と疑問に思ったが、先生に言われたら逆らえないのが小学生というものだ。

 

結局、教師も合理的な理由なしに横一線の指導をしているのではないのだろうか

 

 

日本は勉強においては、劣等感を抱かせてはいけないと横一線を意識する。

しかし、体育などではチーム競技の際に、運動が苦手な子は白い目で見られたり、嫌な役回り(サッカーでいうとキーパーなど)をさせられる。これで運動に対して劣等感を抱いた経験のある子も多いだろう。結局、学校で劣等感を感じることは避けられないように感じる。

「劣等感を感じないように」という目的設定はあまり効果的でないように思う。

 

 

確かに勉強が苦手な子がある程度できるようにすることは大切だ。簡単な計算やある程度の知識がなければ、間違いなく損をする。しかし、その学習ペースは人それぞれで良い

 

決められたペース」で走らせようとすれば、速い子は能力を十分に発揮できず、遅い子はついていけないだけだ。

大事なのは「適切なペース」で走らせてあげることだ。そのペースメーカーが学校などの教育機関であるべきだ。

 

学術研究などは世界が無限に広がっているが、義務教育にはゴールがある。一歩ずつ進んでいけばゴールにはいつかたどり着くのだ。

 

「個性を大切に」

そう言われて久しいが、個性を大切にするとはどういうことかもう一度考えるべきだと思う。

近江鉄道の1520円が与えてくれたもの

ここ2回は暗い話題で記事を書いてしまったので、少し反省している。

 

 

www.nikkei.com

日経新聞に、国交相のローカル路線見直しの新基準が発表されたという記事が載っていた

 

全国のローカル路線は経営的に厳しく、廃線間近、もしくは廃線になった路線が数多くある。

もともと、地方は車社会だからそこまで電車に乗る文化はないのかもしれない。

しかし、鉄道が通じていない場所を「陸の孤島」と形容するように、いざというときに「鉄道が利用できる」という状態そのものに価値があると思う。もちろん採算を度外視するわけにはいかないが。

 

 

さて、ローカル路線全般について語るのもいいが、今日は個人的な思い出を書きたいと思う。

私が初めてローカル鉄道に乗ったのは高校1年生の時に乗った滋賀の近江鉄道だ。

某アニメの舞台が滋賀県豊郷町という場所にあり、そこに訪問するために利用した。

私鉄は大手の阪神電車阪急電車以外ほぼ乗らない生活であったから、とても新鮮であった。

 

滋賀のJR近江八幡駅から近江鉄道のホームに向かい、改札の前で切符を買った。

近江八幡駅から豊郷駅は20キロほどの距離だが、料金は片道で760円

お世辞にも安いとは言えない料金だ。ましてや高校生の財力である。

 

切符を持ち、改札で駅員さんに「○○○大丈夫ですか」と聞かれた。○の部分はよく聞こえなかったが、男子高校生の見栄でとりあえず「大丈夫です」と言った。

 

そのまま乗り換え地点である八日市行きの電車に乗った。

電車のスピードはそこまで速くなく、揺れも多い。しかし、それらも含めて少しワクワクした気分だった。

 

途中駅に停車すると、自転車を引きながら小学生くらいの子供たちが乗ってきた。地元の人々からすれば当たり前の光景なのだろうが、私のような都会民には衝撃的であった。

調べると、近江鉄道では「トレインサイクル」というのをやっていて、正式なサービスなのだそうだ。ローカル路線ならではのサービスである。

近江鉄道 トレインサイクル



 

駅に着くたびに地元の学生が乗ってきた。だいたいジャージ姿である。

名前が思いっきり書いてあるジャージを着ている高校生など、都会ではほぼ見ない。

 

 

田園風景とジャージ姿の高校生と自転車とつり革。自分の普段の生活では全くない組み合わせに、「非日常」を感じて少し嬉しくなった。誰かの日常は誰かの非日常なのだと強く感じた

 

八日市に着き、乗り換えようと思ったところで、駅員さんが言った「○○○大丈夫ですか」の内容を知ることになった。乗り換えの電車が来るのが約50分後だったのだ。

 

電車の待ち時間は20分程度が最大であった自分にとっては、とても長い時間であった。

ホームの木でできた椅子に腰掛け、しばらくホームから見える駅周辺の様子を眺めていたが、見えるのは墓地くらいであった。仕方なく、学生の身分を受け入れて英単語帳を開いた。

 

その後電車が来たときにはとても嬉しかった。サンタクロースが来た気分だった

 

その電車に乗り、数十分の旅路を経て目的地である豊郷に着いた。豊郷は無人駅であるため、運転手さんに切符を渡して降りる。もちろん人生初の無人駅である。都会なら地下に降ったり、階段を登ったりしなければ行くことができない反対側のホームも10秒で行ける。

目的地は駅そのものではないが、駅で数分間余韻に浸っていた。

 

その後、駅から目的地まで行き、満喫した後、近江鉄道でまた帰った。

やはり760円。移動で1520円は高校生にはつらいものだ

 

 

高校生の私は多くの初めてをその日に経験した。まさに「冒険」に近い感覚である。

そういう意味では1520円の価値をはるかに上回る経験だった。

 

日本には自分の知らない場所で知らない生活をしている人がいる。もちろんそんなことは当たり前だ。

しかし、日本人ばかりで構成された日本にいれば、共通理解がある前提で社会が動いており、そんなことは忘れがちだ。

 

そして日本国内でも違うのだから、世界ではもっと違うのだろう。

 

独のメルケル元首相が

みなさんには、他人の目で世界を見ることを忘れないでほしい

と言っていた。

 

他人の目で物事を見る、それはただの客観視とも違うものの見方だ。

 

 

高校生の近江鉄道での冒険は、私にとって間違いなく「他人の目」を養うための1ピースとなったはずだ。

他人の目を養うための1520円。そう思うとお買い得だ。今ではそう思う。

京アニ事件で知った無力感

2022年7月18日、京都アニメーション放火殺人事件から3年が経った。

今でも時々あの事件のことを思い出すほど、衝撃的で、残酷で、悲しい事件だった。

 

私は小学生時代から京アニのアニメを見て育ってきた。

京アニの特徴といえば、人々が織りなす群像劇の作品が多い。

作品のキャラクターたちの生き様は、常に私に何らかの生きるヒントを与えてくれていた

そういった意味では、「育ての親」に近い感覚がある

 

そのため、あの事件の時は本当にショックと憤りを感じた。

すぐに「何かしなければ」という思いに駆られた。

 

当時はまだ大学生だったが、次の日の授業を休んで電車で京都に向かった。

 

以前の私は正直、献花という行為をすることはないと思っていた。ましてや人生初の献花がこのようなものになるとは想像もしていなかった。

 

献花のために現場に付くと、衝撃を受けた。

コンクリートの建物が焦げあがっており、その中に人がいたという事実が信じられなかった。

花を捧げ、手を合わせた。しかし、何を祈ればいいのか正直わからなかった。

ただ周囲の嗚咽と啜り泣く声だけが耳に残っていた

 

それから一週間は何をしても手がつかないような状況だった。「一人でも多く助かって欲しい」という気持ちと、犯人に対する怒りと、何より自分の無力感に苛まれていた。

そして、高校生の時に恩師が言っていた言葉を思い出した。

 

勉強は人助けだ。自分のためであり、人のためにやるものだ。勉強して誰かを助けられる人になるんだ。

 

その言葉は私に強く残っており、誰かを助けられる人になりたいと思いながら勉強を頑張っていた。大学ではビジネスを学んでいたが、ビジネスを通して誰かを助けられると信じていた。

 

でも何もできなかった。事件も防げなかったし、事件の後に大した援助もできなかった。

自分は何のために勉強しているのだろう」と何度も思った。

自分が多少賢くなろうが、自分が助けたい人を助けられないのなら、それは絵に描いた餅でしかない、と。

 

3年経った今でも、何かできないかと思う。その一方で、まずは自分が助けるべき相手を見誤ってはいけないな、とも思う。

 

医者は警察ではないし、警察は医者ではない。人を助けると言っても、そこには適材適所がある。

人は助けたい全員を助けられないから、助ける範囲をそれぞれが決めている

それが職業というものだ

 

当時の自分は助けたい全員を満遍なく助けたいと考えていた。

もちろん今もその気持ちはある。だが、まずは自分に頼ってきてくれる人をしっかり助けられるようにすることが大切だと思う。そのために学び続けていきたい。

誰かが死ななければ気付けない世の中であってほしくない

安倍元首相が銃撃されるという忌々しい事件が起きて約一週間。

このような暴挙はどのような理由があれ、決して許されてはならない。

 

一方で、一週間のニュースや新聞によると容疑者の過酷な生い立ちも明らかになってきた。

容疑者の母親が旧統一教会にのめりこみ、1億円以上とみられる多額の献金をした。

家庭が崩壊し、散々な思いをしてきたようである。

もちろんこれを今回の事件と結び付けてはいけない。当然別の問題として考えなければならない。

 

ただ報道などを見ると、UPF(天宙平和連合)という旧統一教会と非常に関わりが強い団体(弁護士団体から言わせれば実質的に統一教会と同じらしい)に対し、安倍元首相が称賛の言葉を述べるような映像があった。

統一教会に恨みを持つ人間からすれば、安倍氏に怒りを覚えてしまう根拠が全くなかったわけではないように思われる。

重ねて書いておくが、今回の暴挙は決して許されないし、たとえ怒りを覚えていたとしてもこのような手段に訴えることは言語道断だ。

 

 

事件については、現段階ではこの程度にしておこう。

さて、私が気になったのは、今回の事件で急に統一教会にメディアや世間の批判的な目が一気に集まったことだ。

 

このような大事件を起こした容疑者が「統一教会」の名前を出したから世間の注目を集めたのは理解できる。しかし、逆に言えば20年近く注目をほぼ集めなかったとも言える。

弁護士団によればこの20年においても多くの献金問題があり、それに関連した自殺や家庭崩壊なども少なくないのだろうと推察する。

おそらく、声を上げている人は一定数いたのだろう。だが、その「声」は今まで大きく広がらなかった。

 

ところが、超大物政治家が殺害されるという悲劇をきっかけに、今まで聞こえなかった「声」が突如として広がることになった。

今までなぜその「声」を聞くことができなかったのか。

もっと早くにその「声」を聞くことができれば、ここまで最悪の事態にならなかったのではないかそう思ってしまう。

 

 

 

残念なことに、この日本社会が変わるきっかけは悲惨な出来事や事件がきっかけが多い。

大津のいじめ問題で悲惨な自殺者が出て、ようやく学校でのいじめに対して注目が集まった。

木村花さんがSNSで誹謗中傷を受け、自殺という悲惨な結果を生みようやく国が動き出した。

 

もちろんこれらはまだまだ解決されたとは言い難いが、間違いなくそれらの出来事を一因として注目が集まり、変わろうという兆しが出てきた。

 

もちろんそれより前にもいじめはあったし、SNSの誹謗中傷もあった。

そしてそれらに対する「声」も一定数あった。だが、その「声」は事件の前に十分に広がっていたとは言えない。

その「声」が届くようになったきっかけは誰かの死である。

残念ながら、日本社会は小さな「声」に耳を傾けられなかった結果、最悪な結果を招いてしまう、ということを繰り返している。

 

仮に統一教会にメスが入っていたとして、今回の安倍元首相の銃撃が防げたかどうかはわからない。しかし、少なくとも家庭崩壊や自殺者を出してきただろう団体に対し、ほとんど放置に近い状況が続いていたのは事実であり、信者やその家族には救えた人々がいたはずだ

 

おそらく、今でもさまざまな場所で小さな「声」がどこかで上がっている。

大きな悲劇になる前に、誰かが死ぬ前に、その「声」にいち早く気づき、対策できるような世の中であってほしい。

 

 

誰かが死ななければ気付けない世の中にしたくない。理想論かもしれないが、私は強く思う。