安倍元首相が銃撃されるという忌々しい事件が起きて約一週間。
このような暴挙はどのような理由があれ、決して許されてはならない。
一方で、一週間のニュースや新聞によると容疑者の過酷な生い立ちも明らかになってきた。
容疑者の母親が旧統一教会にのめりこみ、1億円以上とみられる多額の献金をした。
家庭が崩壊し、散々な思いをしてきたようである。
もちろんこれを今回の事件と結び付けてはいけない。当然別の問題として考えなければならない。
ただ報道などを見ると、UPF(天宙平和連合)という旧統一教会と非常に関わりが強い団体(弁護士団体から言わせれば実質的に統一教会と同じらしい)に対し、安倍元首相が称賛の言葉を述べるような映像があった。
統一教会に恨みを持つ人間からすれば、安倍氏に怒りを覚えてしまう根拠が全くなかったわけではないように思われる。
重ねて書いておくが、今回の暴挙は決して許されないし、たとえ怒りを覚えていたとしてもこのような手段に訴えることは言語道断だ。
事件については、現段階ではこの程度にしておこう。
さて、私が気になったのは、今回の事件で急に統一教会にメディアや世間の批判的な目が一気に集まったことだ。
このような大事件を起こした容疑者が「統一教会」の名前を出したから世間の注目を集めたのは理解できる。しかし、逆に言えば20年近く注目をほぼ集めなかったとも言える。
弁護士団によればこの20年においても多くの献金問題があり、それに関連した自殺や家庭崩壊なども少なくないのだろうと推察する。
おそらく、声を上げている人は一定数いたのだろう。だが、その「声」は今まで大きく広がらなかった。
ところが、超大物政治家が殺害されるという悲劇をきっかけに、今まで聞こえなかった「声」が突如として広がることになった。
今までなぜその「声」を聞くことができなかったのか。
もっと早くにその「声」を聞くことができれば、ここまで最悪の事態にならなかったのではないか。そう思ってしまう。
残念なことに、この日本社会が変わるきっかけは悲惨な出来事や事件がきっかけが多い。
大津のいじめ問題で悲惨な自殺者が出て、ようやく学校でのいじめに対して注目が集まった。
木村花さんがSNSで誹謗中傷を受け、自殺という悲惨な結果を生みようやく国が動き出した。
もちろんこれらはまだまだ解決されたとは言い難いが、間違いなくそれらの出来事を一因として注目が集まり、変わろうという兆しが出てきた。
もちろんそれより前にもいじめはあったし、SNSの誹謗中傷もあった。
そしてそれらに対する「声」も一定数あった。だが、その「声」は事件の前に十分に広がっていたとは言えない。
その「声」が届くようになったきっかけは誰かの死である。
残念ながら、日本社会は小さな「声」に耳を傾けられなかった結果、最悪な結果を招いてしまう、ということを繰り返している。
仮に統一教会にメスが入っていたとして、今回の安倍元首相の銃撃が防げたかどうかはわからない。しかし、少なくとも家庭崩壊や自殺者を出してきただろう団体に対し、ほとんど放置に近い状況が続いていたのは事実であり、信者やその家族には救えた人々がいたはずだ。
おそらく、今でもさまざまな場所で小さな「声」がどこかで上がっている。
大きな悲劇になる前に、誰かが死ぬ前に、その「声」にいち早く気づき、対策できるような世の中であってほしい。
誰かが死ななければ気付けない世の中にしたくない。理想論かもしれないが、私は強く思う。