数字で評価する??
今日は日本ハムファイターズのポンセ投手がノーヒットノーラン達成。今年5人目だ。
とてもすごい記録だが、こうも多いと凄みを忘れてしまいがちだ。
そこで、ある試合で先発投手がノーヒットノーランを達成する確率を求めてみよう。
一人の打者が一打席でヒットを打つ確率を2割6分として、(四球やエラーなどは考慮しない)
27人連続でアウトを取る確率は(1-0.26)^27で表せる。
計算すると0.000294616…となる。つまりおよそ0.03%だ。
これがすごい確率なのは大体わかるだろう。
ちなみに、調べたところ、実際には0.015%くらいらしい。確率論だけではいかないのがスポーツであり、それが面白さでもある。
さて、こんなことを書いたのは今日書く内容がまさに「数字」だからだ。
「判断するのに数字を使え」こういう人は多い。
何事を判断する上でも数字が大事だというのは同意する。
一方で、その数字を適切に評価できているかといえば疑問だ。
例えば、アナログ(手作業)で処理していた作業にITシステムを導入するとしよう。
50%の確率で現状維持、50%の確率で2倍効率化できるとする。
また、現在1日100件の作業を処理をしているとする。
この場合、システム導入によって50%の確率で1日200件処理できるようになる。
一方で、50%の確率で1日100件のままである。
ここで、システム導入による効率化の期待値を計算してみよう。
100*0.5 + 200*0.5 =150(件/日)
つまり、この場合ITシステムを導入することは、1.5倍効率化することと同等であると評価できる。この場合はシステムを導入した方がいい。
こんな例は非常にわかりやすいため、「こんな単純ではない」とか「作業がより非効率になるケースを想定していない」「導入コストを考えろ」とか言われそうだ。
だが、私が言いたいのはそんなことではない。
実際の社会では上記のような単純な場合ですら「より期待値が高い」ことを選択しないケースがあるのだ。
日本社会は、「変化」を嫌う傾向にあるし、変化によるデメリットを極端に過大評価する。
もちろん変化にはデメリットが伴うのは当然だ。だが、そのデメリットは適切に評価されなければならない。
100のメリットを無視してでも10のデメリットが優先され、最善な選択がとられていないことが多々ある。
「数字で判断する」だけで一歩踏み出せるはずだが、数字という根拠を得ても日本人にとっては、変化は難しいものなのだ。
では、どうすればメリットが上回る場合に「変化」を促せるのか。
ここで思い出す必要があるのが「本来ならば得られるはずのメリットが得られない」のもまた「デメリット」ということだ。
こんなときは、「変化しないことのデメリット」を数字を使って評価してみよう。
ある新システムの導入に100のメリットと10のデメリットがあるとする。
これを「導入しなければ90のデメリットである」と捉えてはどうだろうか。
日本人にとってはより変化に積極的になれるのではないだろうか。
そういえば、幼い子に対しても「~したら損するよ」としつけた方がいいとか聞いたことがあるが、大人でもそうなのかもしれない。
こんなブログを読んでいると損するよ。こう言えば読者が離れるということだ。
男子校はなくなるべきか
ここ数年で男子校の数がかなり減少している。女子校も減少しているようだが、男子校はその比ではない。
中高を男子校で過ごした私にとっては、少し寂しいような気がする。
男女が別に学ぶというのは時代錯誤かもしれない。だが、その「時代錯誤」だと思われている場所に「現代的な価値観」があったりすると思うのである。
男子校のメリットを考えてみよう。
単純に思い浮かぶのは、男子校の方が勉強やスポーツなどに集中できるという点だ。
実際、男子校が共学化すると偏差値が下がるといったデータがある。(もちろん偏差値が全てではないが)
私の母校も共学化した。だが、単純な大学進学実績からすれば、私や私より上の代の方が良い成績を残している。過渡期だからというのもあるかもしれないが。
このあたりは男子校に通ったことがなくても想定できる範囲であろう。
しかし、これは男子校のメリットとしてはあまり大きくないと思っている。
真の男子校のメリットは、
「変わっている」ことにやたら寛容であることだと思う。
女子がいないため、セーブしてくれる存在がいない。
そのため、はっちゃけようと思えばいくらでもはっちゃけられる。
それでいて、特に周りから引かれることもない。
私が高校生の頃は、授業中に「りぼん」を読んでて怒られたやつとか、美少女イラストばっかり描いているやつ、謎の電磁波装置でアニソンを流しているやつなどがいた。
そんな奴も「浮く」ことはない。
なぜなら「浮かせる必要がないから」である。
共学であれば、やはり多くの学生は異性の目を気にする。
そうなると「モテる」ことは良く、「モテない」ことは悪いという価値観に少なからずなっている。もちろんそれが悪というわけではない。世の中は実際にそうだから。
ただ、「モテない」ことを突き進むと「浮く」のである。そしてモテないことをしている奴を「浮かせようとする」のである。そういった雰囲気の結果、己の道を突き進めなかった子もいたのではないだろうか。
男子校では「モテ」などクソくらえである。なぜなら、考えるだけ時間の無駄だからだ。
むしろ「モテ」を気にしている方が周りから奇異の目で見られるかもしれない。
だから皆は「変わっている」ことに対して寛容だ。
正直理解できない奴も結構いるが、理解できないからといって特に否定する理由もない。
そういう組織なのだ。
また、男子校出身者は性別による役割の意識が異様に低い。
「ちょっとそこの男子!!」と言って怒るのもまた男子である。
共学では知らず知らずのうちに男子と女子の立ち位置ができてしまっているところがある。
それは差別とかジェンダー観の話というより「自然と」そうなってしまうのだ。
大学での部活でも「自然と」役割分担が発生していたし、それを多くの人が受け入れていた。疑問を呈している人もいたかもしれないが。
現代で性差による役割意識が問題視されている中で、逆に異性と接していない男子校の生徒に役割意識がないというのは逆説的だが、実際にそうなのである。
ここまで聞くと、男子校は「無茶苦茶」な組織なのではないかと思ってしまうかもしれない。
確かに色んな変わった奴が各々好きなことをしている。
しかし全体で見れば意外と統制が取れている。
「変わっている人」を「組織の一部としてうまく取り込む」ことができるのだ。
特に、イベントの時などはやたら団結力を発揮する。
そして変わっているが楽しいイベントを作り上げるのである。
男子校のメリットをだらだら書いたが、当然デメリットもある。
女子と喋るのが苦手なこと、やたら距離感が近いこと、変わっていることの3点だ。
「やたら距離感が近い」というのは、「同性の友達」に対する距離感が近いということだ。
友達とはいえ、完全に自分の素を晒すことはそこまで多くないだろう。
しかし、男子校ではほとんど自分を隠すことがない。
いい部分も悪い部分も全て曝け出して(それを適度にディスりあって)仲良くなっていくのが男子校だ。ただ、それを大学以降でやると「距離感が近い」し、下手すれば引かれるのである。
最後の「変わっていること」は悪いことではないのだが、やはりマイナスに捉えられがちだ。
今の日本社会は「多様性」という言葉をよく使うが、「本当に変わっている奴」に「多様性」という言葉はあまり使わないと思う。(犯罪者などはもちろん別だ)
この社会における「多様性」は『自分達が理解できる範囲での「多様性」』に終始している気がするのである。それは本当の意味での「多様性」ではないと思う。
本来、理解できないものを否定しないために「多様性」という考え方があるのだ。
男子校では理解しようとするだけ無駄である。いちいち理解などしていたら身が持たない。
だが、理解できなくとも否定はしない。このことが重要なのではないか。
私は男子校は時代錯誤だと思う。私は今でも女性と喋るのはあまり得意ではない(得意なのもそれはそれで怪しい気もするが)し、男ばっかりの方が正直楽だ。そんな奴は現代社会にそぐわない。
ただ、一方で男子校の本質的な部分は「時代錯誤」ではなくむしろ「現代的」である。
変わっている人を排除するのではなく、むしろ組織の一部として取り込みながら何かを成し遂げていくその姿は、日本社会にとって必要な考え方ではなかろうか。
人間とガチャ
世界的にスマホゲームのガチャ形式離れが進んでいると聞く。
日本のゲームしかほとんどしない(というかスマホのゲーム自体最近あまりやらない)ので、ガチャ離れというのはあまり実感がない。
ただ、ガチャというシステムは企業の利益の源泉である一方で、なかなか深刻な問題を抱えている。
欲しいキャラクターなどを手に入れるのに、ゲーム内で有料のガチャを回すわけだが、
欲しいものが手に入る可能性は低くできている。そのため、何回も課金し、欲しいキャラクターが手に入るまでガチャを回す。実際にソーシャルゲーム(スマホのゲーム)をする際、何が一番楽しいかと言われれば、「ガチャを回す時」という回答がそれなりに多いだろう。
ギャンブル的な楽しみの要素はやはり強い。
もちろん、大人が余力の範囲でやる分には問題ないが、子供が親のお金を使い込んだり、あるいは大人であっても生活に支障が出るまで課金するのは問題があるだろう。
さて、このような「ガチャ」はなぜハマってしまうのだろうか。
そこには人間の性質がある。
「サンクコスト効果」という行動経済学の用語がある。
人間は、一度損をすると、以降損をいとわなくなるという性質だ。
つまり、一度お金を使うと、さらに躊躇なくお金をつぎ込んでしまうということだ。
わかりやすい例であればクレーンゲームなどがそうだろう。数回やって止めれば損害は少ないのに、数十回やっても結局取れず、ただ数千円だけを失うといったことはよくある話だ。
他にも、株で下落傾向にある銘柄を損切りできないなども同様だ。
人間は前提として「損を回避したい生き物」である。
例えば、100円落とした後に150円貰ったとしても、損をしたと感じる人の方が多い。
損失を大きく評価するようにできているのである。
ところが、その人間の仕組みは簡単に崩れる。
100円落としてしまうと、200円落とすことも厭わなくなってくるのだ。
この性質を知っていれば、ガチャで散財しすぎることはないだろうし、クレーンゲームも数回で終えられるし、損切りもできる。
経済学では「100円の損」は「200円の損」より「100円の得」と考える。
もちろん実際にはお得感はない。ただ、賢く生きるための知恵として、持っていて損はない知識だろう。
とはいえ、こんなことを書いている私だが、私もガチャで散財したことが何回かある。
知識を持っている私ですら、ガチャの魔力に勝てない時があるのだ。
ガチャをする際は程々に楽しく。自戒の意味を込めてしっかりとここに記しておきたい。
禍福は糾える縄の如し
我らが阪神タイガースは8月12日終了の時点で4連敗。最大借金16を返済し、貯金3まで積みあげたチームはついに借金生活へと突入した。盤石の投手陣を抱えつつも、打線が不振に嘆く。
チーム内打率1位2位の近本、中野選手、ホームラン数と打点がチーム内トップで、セリーグでも共に2位につけていた大山選手がコロナ陽性で登録抹消となった。
また、代走の切り札の熊谷選手、ムードメーカーの北條選手なども離脱となり、控えのカードも切りにくい状況だ。
好打者が次々といなくなり、4番だがまだ2年目の佐藤輝明にマークが集中し、本人も責任感の重圧からか不振が続く。
良い要素が現状ほぼない。まさに開幕当初9連敗した時のようだ。
「禍福は糾える縄の如し」
まさにこの言葉は先人たちの偉大さを思い知らされる。
良いことも悪いことも連続して起こる。言葉にしてしまえば単純だが、かなり的を射た言葉だ。
人生には何をやっても上手くいく時、何をやっても上手くいかない時、両方あるものだ。
前者の時には問題ないが、後者の時に頑張り続けるのはやはり大変だ。
そして、上手くいかない時にこそ人間の真価が発揮されると言える。
私もそんな時期があった。中学生2年生の頃だろうか。
朝5時に起きて勉強していたにも関わらず成績が上がらなかった。また、当時所属していた部活でも、結果を出しているのにも関わらず、パフォーマンスよりも周囲との人間関係が重視されて試合で使ってもらえなかった。さらに、当時運営していたネットのサークルもサークルメンバーに誹謗中傷を書き込む荒らしが現れ、対応にも追われていた。また、父親からも強い束縛を受けていた。
当時は全てを投げ出したくなったものだ。
その時に自分を救ってくれたのは、間違いなくアニメだ。
アニメの主人公は、たいてい辛い時に真価を発揮する人物だ。
頑張って結果を出すのはかっこいい。しかし、結果が出ない中で頑張り続けるのもとてもかっこいいのだ。そんな姿を登場人物たちは見せてくれた。
そんな姿に感化され、努力し続けようと決意した。(若干は腐っていたが)それなりの学生生活が送れたのではないだろうか。
上手くいかない時には「きっかけ」を掴む必要がある。
その「きっかけ」というのは大きいものだとは限らない。
私にとってはたかが「アニメ」だ。
こんな時だからこそ、阪神は小さいきっかけを見つけていこう。
単純に考えれば、今日も負ける可能性が高い。
だが、9連敗を経験しているチームだ。
最悪を経験した人間は強いし、「きっかけ」を見つけることもできるはずだ。
猛虎の復活を期待したい。
無言のマクドナルドの良さ
私はマクドナルドの大ファンである。
毎週土日のどちらかは朝マックを食べに行っている。なんなら土曜日に出している記事はほぼマクドナルドで書いている。
といっても、マクドナルドに頻繁に通うようになったのはここ2年ほどだ。
マクドナルドには「モバイルオーダー」といって、スマートフォンのアプリから注文し、そのまま席に運んでもらえるサービスがある。
つまり、一言も発さずに料理が運ばれてくるのだ。
かつて一般人が外食でそのような経験をすることは考えられなかっただろう。
実にすごく偉くなった気分だ。
この「モバイルオーダー」には数々のメリットがある。
ファーストフード店は混みがちで、なかなかゆっくり商品を選ぶことはできない。
モバイルオーダーなら、じっくり検討して選ぶことができるし、新商品などもしっかり確認できる。そのため、注文に対する満足度が高い。
また、自分のようなやや人見知りの人間は、正直あまり喋りたくない(もちろん注文くらいは普通にできるが)ので、それだけでもかなり気分が楽だ。
支払いも楽で、クレジットカードやキャッシュレス決済でスムーズである。
また、席で待っているだけでいいので並ぶ必要もないし、場所取りのために荷物を置いておく必要もない。
このように書くとマックのステマみたいだが、私のような人間にステマを頼むほどマックが追い込まれていることはないので安心して欲しい。
さて、このように最近では「無言」サービスが増えている。
例えば、サイゼリヤも紙に注文を書いて渡すだけだ。
サイゼリヤの場合は結局確認のためにしゃべっている気もするが。
地元のスーパーでも「セルフレジ」が導入されている。
「セルフレジ」というのは完全に自分だけでお会計ができるサービスだ。
小銭を取り出す時間などで周囲を待たせる必要はない。
ふらっとお菓子などを買うのにちょうどいい。
さて、人と関わらないということは、自分の意志を貫きやすいということだ。
セルフレジのスーパーなら、大人でもポケモンパンを大人買いしやすい。モバイルオーダーならマックでポテトを3つ注文するとかもしやすい。
もちろん誰にどう思われようとどうでもいい人なら関係ない。(というか私はそっちよりだ)
しかし、多くの人は、他人が介在することによって、良くも悪くも自分の意志は制限されてしまう。たとえ他の人に迷惑がかからないことだとしても、「周りからこう思われる」という理由で自分にとっての最善を取らないことがある。
そういう意味で技術的に他人と「関わらない」ことは一定程度良いことなのかもしれない。
SNSや通信手段の発達が人とどこでも「関われる」ようにした一方で、モバイルオーダーなどによって今までよりも「関わらない」ようにできるようになった。
各々が「関わり方」のバランスを調整できる社会になれば、より多くの人たちが生きる社会になるのだろう。今後の新技術に期待したいものだ。
「子供」を守れない「大人」たち
第104回全国高等学校野球選手権大会、いわゆる「夏の甲子園」が始まった。コロナ禍でなかなか思うような学生生活が送れなかった球児たちが、少しでも良かったと思えるような大会にして欲しいと強く思う。
私は普段プロ野球をよく見るが、やはり技術やパワーでは高校生は敵わない。それでも高校球児たちの全力プレイは見ていて気持ちがいい。
スポーツは「人」を見るものなのだな、と改めて感じさせられる。
さて、白球を追いかける球児たちの裏にはコロナウイルスの猛威が迫っている。
8月6日の開会式には新型コロナウイルスの感染者が出た一部の学校は参加しなかった。
それでもすぐに出場辞退とならなかったことに高野連および関係者に敬意を表したい。
一方で、高校サッカーのインターハイでは「感染者が一人出れば辞退」という厳しすぎる規定で出場辞退となった学校がいくつかあった。
色々な事情はあるのだろうが、このような極端な規定は正直理解できない。
サッカーで言えば、Jリーグは一部の声出し応援などを認めているし、社会的には多少の感染者は許容する方向で動いている。
もちろん感染していいわけではない。
ただ、3年生にとっては最後のインターハイだ。
「一生に一度」の重みを軽視しすぎだ。
思えば、新型コロナウイルスに関しては、軒並み学生に対して厳しすぎる。
修学旅行が中止になった学校も多くあると聞くが、高齢者の集団が普通に旅行していて、中高生が修学旅行に行けないなど不条理だ。
私も大学4年生の時にコロナ禍だった。苦しい就活が終わり、遊びたくても遊べないし、部活もない。
喋るような部活ではなかったが、一律的に禁止されていた。
仕方なく、秋口から開き始めた図書館で勉強していた。
図書館に向かう途中、小学校のグラウンドで、高齢者のグループがゲートボールを楽しんでいた。
「自分は誰のために苦しんで自粛しているのか」と思った。
しかし、テレビでは「若者が感染拡大の原因」の一点張り。
この国で若者を守ってくれる人はいない。
この国はどうかしているのではないかと本気で思った。
さて、話を戻そう。
こんなことになった原因は間違いなく子供ではない。「大人」だ。
感染者が出れば苦情を入れる「大人」であり、批判を恐れる「大人」、子供のせいにする「大人」だ。
もちろん健康を守ることは大切だし、クラスターが起こってはいけない。
だが、最も守らなければならないのは「子供」そのものだ。
「子供」の健康ももちろんだが、子供の教育、経験、何より夢だ。
子供が子供らしくいられるようにするのが大人の役目ではないのか。
今の日本は「子供」に「大人」になるように求めすぎている気がする。
この国では芦田愛菜ちゃんのような精神的に成熟した子がやたら賞賛される傾向にある。もちろんそれは素晴らしいことだが、「子供が子供らしくいる」のだって負けず劣らず素晴らしいことだ。
若さに任せて二兎追いたければ追ってみればいい。一兎も得られない可能性もあるが、二兎を追った経験は何事にも変え難い。そして本当に二兎を掴む可能性もあるのだ。
そして、それが「大人」になったときに強力な礎となるのだ。
自分もそこそこ若いが、もうそんな元気はない。
だからこそ、今の学生たちには夢を追いかけて欲しい。
そして、その夢を大人が安易に壊してはいけない。
大人が子供の夢を壊す国に未来などあろうはずがないのだ。
本当に我々が守るべきものを見定めて、コロナウイルスの対策を講じていくべきだ。
ストーリーありきの報道を見直せ
私が中学生の頃や高校生の頃は「アニメが好きな人」が何らかの犯罪を犯すと、必ず「容疑者の部屋からアニメグッズが出てきた」などの報道がなされていた。
当時からアニメが好きだった私は疑問を持っていたが、どれほど多くの人が疑問を持っていただろうか。当時は今より明らかにアニメファンに対する当たりは厳しかった。
「現実世界ではなく、虚構の世界にうつつを抜かす奇人だから犯罪を犯した」
メディアにはこういったストーリーの元、報道がなされていたのだ。
そしてそのストーリーは「正しさ」よりも「大衆の納得感」が求められているのではなかろうか。
そして、現在もそういった報道は無くならない。
新型コロナウイルスが拡大し始めた頃、「若者が感染拡大に大きく寄与している」「若者のせいだ」というストーリーが作られた。実際感染者の分布などを見ると、一定程度若者にも責任はあると思う。だが、全て若者のせいにして解決するほど若者が大多数でもなかった。
メディアはわざわざ渋谷で取材し、感染防止意識の低い若者をカメラに収めようと動き回った。テロップには常に「若者が〜」と書いていた。
また、箱根駅伝の沿道に観客が群がっている様子が問題視されていた、
それらの観客はほとんど若者「以外」の人間だった。
ところが「若者以外の人間が群がっている」とは書かないわけだ。
「若者が」と書くなら「若者以外が」を主語にすることも問題はないはずだ。
なぜしなかったのか。
山上容疑者が安倍首相を銃撃し、殺害した事件でもその「ストーリー」は作られていた。
メディアはこぞって「山上容疑者が安倍首相と旧統一教会に関係があると思い込み、殺害に至った」という報道がなされていた。コメンテーターも「何の関係のない安倍元首相を手に掛けるなんてとんでもない」といった論調だった。
「思い込む」という表現をわざわざ用いているということは、「狂った男が一切客観的な理由なく、旧統一教会と全く関係がない、清廉潔白の安倍元首相を襲った」というストーリーを想定してしていたわけだ。
ところが、安倍派議員を中心とした、統一教会との関係が明らかになってきてからはその表現は聞かれなくなった。むしろ、政治家と旧統一教会との関係は「ある前提」となっている。
本当に思い込んでいたのは誰だったのか。それは山上容疑者ではなく、メディアだ。
日本のメディアは中立、公正という表現をやたらめったら使いたがる。
それを目指すのは結構だが、本当に今の状態で実現できるのか。
「山上容疑者が安倍元首相と旧統一教会に関係があると「思い込んでいた」という表現は間違っていた」と謝罪したメディアがあっただろうか。
というか、まだ気づいてないのかもしれない。
いい加減に変わるべき時だろう。日本の報道の自由度が低いと論じられるが、より自由が与えられたとて、それを適切に活かせるとは思えないのだ。
ストーリーは事実から作り上げるもので、ストーリーに事実を当てはめるわけではない。それはメディアの越権行為だ。
ストーリーありきの報道を見直せ。時代錯誤にも程がある。