けけの備忘録

20代そこそこのいわゆるZ世代。ニュースや日常生活の中で感じたことをエッセイ的に書きます。

ストーリーありきの報道を見直せ

私が中学生の頃や高校生の頃は「アニメが好きな人」が何らかの犯罪を犯すと、必ず「容疑者の部屋からアニメグッズが出てきた」などの報道がなされていた。

 

当時からアニメが好きだった私は疑問を持っていたが、どれほど多くの人が疑問を持っていただろうか。当時は今より明らかにアニメファンに対する当たりは厳しかった。

「現実世界ではなく、虚構の世界にうつつを抜かす奇人だから犯罪を犯した」

メディアにはこういったストーリーの元、報道がなされていたのだ。

 

そしてそのストーリーは「正しさ」よりも「大衆の納得感」が求められているのではなかろうか。

 

そして、現在もそういった報道は無くならない。

新型コロナウイルスが拡大し始めた頃、「若者が感染拡大に大きく寄与している」「若者のせいだ」というストーリーが作られた。実際感染者の分布などを見ると、一定程度若者にも責任はあると思う。だが、全て若者のせいにして解決するほど若者が大多数でもなかった。

 

メディアはわざわざ渋谷で取材し、感染防止意識の低い若者をカメラに収めようと動き回った。テロップには常に「若者が〜」と書いていた。

 

また、箱根駅伝の沿道に観客が群がっている様子が問題視されていた、

それらの観客はほとんど若者「以外」の人間だった。

ところが「若者以外の人間が群がっている」とは書かないわけだ。

「若者が」と書くなら「若者以外が」を主語にすることも問題はないはずだ。

なぜしなかったのか。

 

 

山上容疑者が安倍首相を銃撃し、殺害した事件でもその「ストーリー」は作られていた。

メディアはこぞって「山上容疑者が安倍首相と統一教会に関係があると思い込み、殺害に至った」という報道がなされていた。コメンテーターも「何の関係のない安倍元首相を手に掛けるなんてとんでもない」といった論調だった。

 

思い込む」という表現をわざわざ用いているということは、「狂った男が一切客観的な理由なく、旧統一教会と全く関係がない、清廉潔白の安倍元首相を襲った」というストーリーを想定してしていたわけだ。

 

ところが、安倍派議員を中心とした、統一教会との関係が明らかになってきてからはその表現は聞かれなくなった。むしろ、政治家と旧統一教会との関係は「ある前提」となっている。

 

当に思い込んでいたのは誰だったのか。それは山上容疑者ではなく、メディアだ。

日本のメディアは中立、公正という表現をやたらめったら使いたがる。

それを目指すのは結構だが、本当に今の状態で実現できるのか。

 

「山上容疑者が安倍元首相と旧統一教会に関係があると「思い込んでいた」という表現は間違っていた」と謝罪したメディアがあっただろうか。

というか、まだ気づいてないのかもしれない。

 

いい加減に変わるべき時だろう。日本の報道の自由度が低いと論じられるが、より自由が与えられたとて、それを適切に活かせるとは思えないのだ。

 

ストーリーは事実から作り上げるもので、ストーリーに事実を当てはめるわけではない。それはメディアの越権行為だ。

 

ストーリーありきの報道を見直せ。時代錯誤にも程がある。